私の家で、小太郎と呼ぶ柴犬を飼っています。3年前に家内と長女がペットショップに行って生後1か月の、一目惚れした幼犬を求めて来ました。ずっと以前には、同じ柴犬の成犬を知人から貰って飼っていて、人で言えば90近くの老年になって10年前に死にました。その悲しみもあって当分飼わなかったのですが、ようやく決心がついたものです。
名前は家族みんなで相談して、「小太郎」としました。「こた」、「こた」と呼んでいます。この名前は少しいわれがあります。私が鎌倉時代の有名な武将の末裔という話があって(事実かどうかは分かりません)、その武将の幼名が小太郎といいましたので、私が提案したら、「こた」という呼び名が可愛いからと、賛成して呉れました。右の写真は家に来たばかりの頃です。
家に来てすぐはさすがに夜になると、おりの中でくんくんと、親から引き離された寂しさでしょう、悲しそうに泣いていました。家内はかわいそうに思って、そのおりに毛布をかけて、抱くようにして寝かせていました。しばらくして、ひとりで寝るようになりました。そのときに自分の母親は家内だと勘違いしているみたいです。それと、今でも散歩に連れていったり、餌をやるのは大抵家内なので、そのせいでしょうか。家内がピアノの練習をしているときには、ピアノの横でじっと聞いている、パソコンをするときは、そばに横たわっている、台所で食事の準備をしているときも、食卓にいるときも、横にかっこよく座って、家内をじっと見つめている感じです。
愛犬というのはなかなかのものですね。私と家内と息子と娘と、4人一緒に住んでいると、時には感情の行き違いがあります。そのとき「こた」はとてもいい役割をするのです。誰かが、「こた、可愛いねえ」といいだすと、とたんにみんな「こた」に注意が行って、冷静になって自分を抑えることができます。
娘なんかはよく、「ねえ、こたって、可愛いと思わへんか」とよくいいます。「可愛い、可愛い」とよく言います。「お前なあ、もう少し表現力を豊かにしたらどう」と私はいいますが、私も言うほど語彙が豊富とはいえないのは白状します。
Dogは、逆に綴るとGodになると、ある宣教師が言った言葉が思い出されます。犬というのは、慰みであり、救いです。これも誰かの言葉ですが、猫はネズミを捕る、鶏は卵を生む。何もしないでしっぽだけ振っていて可愛がられるのは犬であると。
左は私のホームページのタイトルにある小太郎です。