2006年10月8日の主日のミサの福音でイエス様は、「子どものようにならなければ神の国に入れない」と言われています。私はこれまで「子どものようにとはどういうことだろう」と考えてきました。この言葉はいろいろ語られていて、子どものように「素直である」とか「純真で心が汚れていない」とか「すべてを人に頼っている」生き方だという説明がよくされます。しかし子どもというのはわがままで、親のいうことをいつも素直に聞くわけではなく、おとなしくしなさいと言っても騒いだり、これを食べなさいと言ってもきらいだというし、ガマンしなさいといっても欲しいおもちゃを買ってくれと言って聞きません。親に頼って生きているなら言うことを聞くと思えますが、なかなか親の都合いいようにはいかないようです。
これから私の孫の話をします。5年前に孫が出来た時、同じ頃に柴犬を飼い始めたのですが、私の子どもたちから、「お父さん、よその人に自分の孫の話と犬の話は絶対にしないで」と堅く釘をさされました。私はもっともだと思い、これまで固く守ってきたつもりですが、今日は例外にしてください。例として身近な子どもをとりあげて話をするのですから。 良く守りを頼まれて、月に2、3度は連れてきていますが、その子と遊んでいると感嘆することばかりです。どんなことにも関心を示し、豊かな表情で驚きを示し、歓声を上げて喜びます。 小さい頃からおもちゃなどを良く買って貰い、最近では電池で動いたり、リモコンで動くものになってきました。もちろんそれらを心から楽しみます。しかし、大人が工夫を凝らして、商品として開発したものだけ喜ぶのではないのです。
手許にある板や釘でちょっとした細工をしておもちゃらしいものを作ってやると、「おじいちゃんが作ってくれた」と言って、見た目では売っているものとはずいぶん違いがあっても、心から喜ぶのです。折り紙でも私が工夫してそれらしいものを作ってやると、それをとても大切に扱います。また、林の中を散歩していて赤い実を見つけると、宝物のように扱います。少しきれいな石ころでも大切にします。
これは一言で言えば感受性です。子供の感受性に驚嘆します。子どもはこの世に生まれ出てきて目に触れ、手に触れることはすべて新しいものです。だからこんなに目を輝かせて喜ぶのです。 私は技術者ですから、新しい技術を開発するためにするどい感受性が必要とされ、絶えずそれを磨こうとします。何にでも興味を持ち、不思議に思う心です。過去の偉大な発明発見はその心からされたものです。子どもをみていると、大人がいくらがんばってもとても及ばない気がします。
京都教区の聖書講座は毎年20人の講師が聖書について話をします。今年のテーマはヨハネ福音書で、ヨハネ福音書はしるしの書と、栄光の書と分かれていると言われます。ある神父様がしるしをテーマに次のように話をされました。しるしとは福音書に出てくる奇跡のことですが、目に見えない超自然的な奇跡を見て、すべての人がすぐキリスト信者になったわけではない。その出来事の裏に隠されている深い意味を知るものにとって初めてしるしとなるのである。だから心ある人にとっては一枚の葉っぱが落ちるのを見てもそこに神のわざを感じとることが出来るかも知れないというお話です。
それで思い出したことがあります。 「桐一葉落ちて天下の秋を知る」というのは、私は俳句とばかり思っていました。ところが調べてみると中国で今から2000年前「一葉の落ちるを見て歳のまさに暮れんとするを知る」という言葉から来たということです。桐の一葉が落ちるのを見て、何も特に感じない人もいれば、ある人は季節の秋を、ある人は人生の秋を、そしてある人は没落しようとしている国家の秋を感じるかも知れません。
この世界はすべて神のみ業であると私は信じています。するとここかしこ、いたるところにそのみ業の痕跡があるはずです。いつも神のことを考え、するどい感受性をもっていればそれに気付くのではないかと思いました。
イエスが「子どものようにならなければ」と言われた意味の一つは子どものように神のみ業への感受性をもつものではないかと思います。
先ほど紹介した子供のおどろくべき感受性。70に近い私もまだこの神から見ると小さいこどものようなものです。初めてみることはまだまだ沢山あります。そのときに一つひとつを神のしるしとして感じるようになりたいものと思います。
この世界はすべて神のみ業であると私は信じています。するとここかしこ、いたるところにそのみ業の痕跡があるはずです。いつも神のことを考え、するどい感受性をもっていればそれに気付くのではないかと思いました。
イエスが「子どものようにならなければ」と言われた意味の一つは子どものように神のみ業への感受性をもつものではないかと思います。
先ほど紹介した子供のおどろくべき感受性。70に近い私もまだこの神から見ると小さいこどものようなものです。初めてみることはまだまだ沢山あります。そのときに一つひとつを神のしるしとして感じるようになりたいものと思います。