2006年11月23日(祝)、フランシスカン・ファミリー30数名と一緒に南禅寺北之坊、光雲寺を訪問して、少しの時間、座禅の体験をして、禅についての話を聴きました。
46年前学生時代の夏季実習で1か月間妙心寺の東海庵に泊めて貰ったとき山田無文師から幾晩か禅の話を聴かせて貰って以来、禅には(カトリックの洗礼を受けてからも)いつも関心を持ち続け、曹洞宗のイス座禅に2度ほど参加したこともありましたが、まともに膝を組んで坐ったのは初めてでした。とはいっても今腰を痛めてコルセットを着けて参加しましたので、腰が痛くて半跏趺坐すら出来ず、どうしようもありませんでした。後から聞かされたところでは15分か20分程度でしたが、警策を受けてもほとんど感じることはないほど、足が痛みました。
老師は若いころの話の中で、初めて座禅をしたときそんな短時間ではなく何時間も座り続けて足はちぎれるほど痛かったと言っておられましたので、私はこんなことも我慢できないのかと、少し情けなくなりました。日頃、精神的にはともかく、肉体的な苦しみに合うことがほとんどないことに気付きました。病気の時の痛みはときどきありますが、敢えて修練のために身を痛めるということはなかったですね。せいぜい1日1食だけの断食でお腹がすいたことを我慢した程度でしょうか。
禅は「無」を徹底的に求めるものというイメージがあります。それについてはよく分かりませんが、「幸せになりたい」とか、「もっと良くなりたい」ということで悩んだり、迷ったりしても、決して解決しない。人間はそのままの姿で「完全な」ものであるという老師の話を聞いて、そのことが本心から分かることが「悟り」というものではないかという気がしてきました。
西欧のアシジのフランシスコと日本の禅とどういう縁があるかが私の最大の関心事であり、問題なのでした。フランシスコは文字どおり神を信頼してすべてを捨てて生きることを決心しました。すべてというのは、物質的なものだけではなく、知識も誇りもすべてです。完全な信頼のもとにすべてを捨てるという決心は、禅の「悟り」と同じもののような気がします。サン・ダミアノのイコンの前で、「悟り」を得たのではないかと思われるのです。
白隠禅師の画の中に、自分がなんとかして悟りを開きたいと考えている僧に対して、「衆生の救いを忘れている愚か者」と叱りつけているのが印象に残っています。悟って自分の安心を得ようという考えではいくら修行しても悟りは得られないのは当然の気はしますね。
フランシスコは、徹底的にどんな瞬間にも神の愛を感じて生きたと思われます。ところが、禅においては自分がそのままの姿で「完全である」ということを悟った後は、そのことを意識するのではなく、そこから離れ、忘れ去るというのです。一切意識しなくなる「空」の心境は東洋の表現なのでしょうか。これに比べて神の愛を絶えず感じるというのは西欧の論理なのでしょう。ゼロと無限大は、全く違うものであり、実はどこかで通じているという気もします。
意味のない論争のことを「神学論争」といいます。これは西欧の表現です。わけの分からない話し合いを「禅問答」といいます。これは東洋の表現です。とても興味深いことですね。私は東洋人です。