神輿の巡幸の前に、鉾が先払いします。私が住んでいる福王子村(今はいくつかの町からできていますが、かつてこのように呼ばれていました)も一基の鉾を持ち、一週間前の御出で(おいでと読みます)の日、鉾宿に、こども神輿とともに飾られます。その鉾宿で巡幸の前の夜(宵山)に、福王子神社の神官によるお祓いが行われ、私もお参りしました。
それに先だって、鉾宿の前では庚振太鼓が演奏されました。 子どもたちを中心に、練習がいきとどいた、身体に響く演奏でした。音というのは耳で聴くものですが、太鼓の音は、鼓膜だけではなく、全身を震わせる力があります。歯切れのよいリズムで身体に入り込む太鼓の音は、気持ちをわきたてます。
大祭当日は、福王子神社本殿で式典が行われました。私は高校を卒業するまでずっと山口県の田舎で神道で育ち、小さい頃から毎年除夜の鐘を聴いてから真っ暗な道を家族揃って、村の鎮守の八幡様に元朝参りするのが習慣でした。京都に出てきて、カトリックの洗礼を受けましたが、神社には何か郷愁すら感じます。
式典は、神官が場を払い清め、神殿の扉を開いて神霊を迎え、供え物の神饌を捧げ、祝詞を奏上して神の恩に感謝し、参列者が玉串を奉じて拝礼しました。その後神饌を下げ、扉を閉めて神霊をお送りして式典は終わりです。
私にとって、印象的でしたのは、僧侶がこの式典に参加されたことです。仁和寺関係の方だと思われます。素晴らしいと思うのは、世界では各地で一神教の間で血を流す争いが絶えませんが、日本では、仏教と神道が共生していることです。キリスト教の私も今回は仲間に入れていただいて、とても嬉しいことです。
神輿の巡幸は、獅子舞、太鼓、五本の鉾が先導のお祓いをして、その後ろから神霊を奉じた神輿が福王子神社の氏子の町内を、巡りました。まず西に行って宇多野病院あたり、そこか南にJR太秦駅が見える辺りまで、東に行って双岡中学校、そして北に仁和寺まで。私の役割は鉾を搭載した軽トラックの運転でしたが、神輿の担ぎ手は、いなせな半被姿で、一日中勢いよく重い神輿を担いで巡りました。町々には大勢の人々が迎え、それぞれ、お神酒などを振る舞って景気づけました。
圧巻は、知恩院三門、南禅寺三門と並ぶ京の三大門といわれる仁和寺仁王門の石段を登る神輿でした。あの急な階段を、重い神輿が大勢の担ぎ手によって勢いよく上がって行きました。
神輿は、仁和寺の仁王門から入って、勅使門にかかりました。私の家から仁和寺には五分ほどですから、これまで春の桜は毎年欠かさず見物していますし、著名な御殿も何度か拝観していますが、今回勅使門を通ことが出来るとは思っても見ない嬉しいことでした。神輿は、勅使門を通って中庭に入りました。仁和寺の僧侶によるお経(私には般若心経に聞こえましたが)、神官の言葉があり、神輿は勢いよく振り上げられました。
このあと神輿は鉾宿を通って、福王子神社に戻りました。神社の前の、福王子の交差点で神輿は宮入の前に激しく振り上げられました。この交差点は京都市内から天神川通りを経て高雄、周山に抜ける道と、金閣寺、竜安寺、仁和寺から山越、嵐山に抜ける観光道路(きぬかけの道とよばれています)の交わるところで、日頃から渋滞が起きやすい場所です。熱気に包まれた大勢の担ぎ手による神輿振りがしばらく続いている間、多くの車がじっと待っていました。
神輿は天皇の乗り物である鳳輦に神霊が乗り移ったというのが始まりのようですが、確かに今日見た時代祭の鳳輦のイメージにそっくりと思いました。神輿はこれに神紋や鳥居、玉垣、高欄などを設けて神社を小型化したものに見えます。大勢の人が見守る中で、元気あふれる若者たちが肩の上に神輿を担いでもみ合い、押し合ってすべてを忘れて神と人とが一つになっているように見えました。
私も担ぎ手になれないかなと思いましたが、はじめて近くで見て、この年ではと思いました。
日本文化の神髄体験して感動した一日でした。
(私は神道については子どもの頃の知識なので、宗教的な言葉遣いなどで、間違いや失礼な表現がありましたら、お許し下さい)