主の祈りはマニフェスト

 私は、イエス・キリストご自身から教えていただいた「主の祈り」を、いつも祈っています。聖母マリアへの祈りである「天使祝詞」と、アシジの聖フランシスコの「平和を求める祈り」と同じくらいの回数祈っています。

 ある司祭から、「主の祈り」は主に対してこうして欲しいというお願いだけでなく、自分の宣言、いわばマニフェストなんですよと言われて、そのときははっきり分からなかったのですが、少しずつその言葉の意味が分かって来ました。

 私は自分勝手な願い事をよく神に祈ります。どんな祈りでも聞き届けて貰えると信じています。ただ、心から強く祈ったとしても、神が超自然的に実現してくれるものとは思っていませんでした。必要なのは、心から願って口に出して唱えることだけでなく、実現に向かって行動することと思っています。例えば、「世界の国々の指導者の心を、平和への熱意で燃え立たせて下さい」といかに強く祈っても、それで平和がもたらされるとは思えません。私が、いつも上機嫌で、柔和で、誰に対しても決して争わないという生き方が、世界の平和をもたらす一歩だと思うのです。

 主の祈りは、神から教えて貰っただけに、この考えを忘れて、呪文のように唱えるようになっていましたので、これからは、主の祈りは宣言のように唱えようと思っています。

「天におられる私たちの父よ」は、時間も空間も越えた天の、私ではない、私たち世界すべての人にとっての存在(私には人格的な神のイメージが浮かばないので存在とします)に呼びかけます。
「み名が聖とされますように」は、すべてをおいてその存在を尊びます。
「み国が来ますように」は、イエス・キリストに教えてもらった神の国に生きます。
「み心が天に行われるように、地にも行われますように」も同じです。