未来世代に対する責任 長崎教区司祭 宮川俊行
トップへ戻るこの文は長崎大司教区「言の波」第10号からお許しを得て転載したものです。
資源問題と環境問題
現代人類が真剣な取り組みを求められているものに、環境問題と資源問題がある。いずれも近代人である現代世代が引き起こしたもので、その重要な一面は「未来世代に対する責任一である。環境倫理学の重要テーマの一つである。
*資源枯渇
一つは、人類の使えるエネルギー資源に枯渇の危険が迫っているという問題である。地球の生態系は、閉じた世界で、利用可能な物質とエネルギーの総量は有限であるのに、現代世代がこれを大量に使い続けている結果、このまま進めばそれは遠からぬ将来枯渇してしまい、未来世代にはそれを使う可能性がなくなってしまう。かれらは生存を脅かされることになる。典型例として石油や石炭などの化石燃料が挙げられることが多いが、量的に限られた地球の他のエネルギー資源一般においても事情は同じである。
*環境破壊
現代文明は化石燃料の大量消費によって支えられてきたが、これが地球の自然環境に破壊的悪影響を及ぼし、現代人類を脅かし始めている。これは、そのまま未来世代への重大な加害となっている。現存する種の絶減の進行、不可逆的な砂漢化の進行、森林の破壊、地球温暖化など、地球環境の深刻な汚染が進行しつつある。さらに現代世代は、その高レベル放射性廃棄物の累積により、未来世代にツケを回している。
未来世代への加害
この両問題には共通の面がある。現代世代が、未来世代の生存条件を破壊したり悪化させたりすることによって加害者になっている。わざと未来世代に害を加えようとしたのではないが、このような結果を引き起こしてしまった、というのである。
害を受ける未来世代はまだこの世に存在していない。受ける被害を訴えたり、加害者である現代世代にすぐにこれを止めるよう要求したりできない。完全強者である現代世代の方でこれに気づき、自分たちの責任を感じ、ふさわしい対応を取るという形でしか問題は解決できない。それゆえ、この問題に気がついたということには大きな意義が認められる。
キリスト教信仰の判断
カトリックの信仰の立場から見ても、これが現代人類が取り組むべき問題の一つであることは明らかである。
地球環境は、世の終わりまで地上に生存すべき「人類」全体に与えられている。神の前にはすべての時代の人類は完全に平等で、ある時代の人類だけが特権的地位を与えられているわけではない。どの時代の人類にも、自分たちが先代から引き継いだ地球環境を少なくとも劣悪化しないで次の世代に譲り渡す責任がある。いや、人類の発展と隆盛のためにはより豊かなものにして引き渡すことが好ましい。創造主である神から「地を支配する」(創世記1・26-30)ようにと地球を委ねられている人類には、この重大な使命に対する忠実さが求められているのである。われわれ現代世代が自然環境を容易に復元できないほど破壊してしまい、未来の人類が神の与えたものを深刻に損なわれた形でしか受け取れないようにするというのは、未来世代への正しい引き継ぎという重要な課題をないがしろにすることで、人類に対する神の救いの計画への妨害さえ意味しえよう。
現代世界はどう対応?
未来世代への加害問題が自覚されて以来、状況改善の真剣な取り組みはあちこちで行われてきており、現在も継続中である。さまざまの計画もある。状況の改善も見られ始めた。 例えば、有限な埋蔵資源に依存しないで、太陽エネルギーを用いようと工夫する努力がある。また、エネルギーと資源を循環的に利用する方式に改めようとするものがある。埋蔵資源などを循環的に使って、未来世代が同じ物質を再利用できるようにするという。地球の生態系の自然老化もあるので完 全な循環はできまいが、できる範囲でやろうという。また、各種の地球温暖化対策がある。他にもい ろいろ提案があり、中にはすでに実行されているものもある。 しかしこれらは、基本的に同じ姿勢のものであることが注目される。問題をただ技術的に解決しよ うとし、危機を技術開発で乗り切ろうという姿勢である。エネルギーの消費効果を高めるとか、環境が保護されるような新しい技術を開発するとか、いずれもできるだけ経済成長を犠牲にしない、という態度である。少なくとも未来世代に現代世代と同じ選択の幅を残すように気をつけながら、すなわち未来への加害でなく未来に現代との共存を許しながら、現代世代がなお自分の欲望充足を追求し、成長や進歩を目指すことが可能であるように、という考え方で一貫しているのである。
カトリック教会の出番
カトリックの信仰の価値観から見ても、万人の人格の尊厳にふさわしい生存は、重要な基本的要求であり、これに必要な生活の質や文化水準の向上を可能にする経済成長の意義は大きいので、このように経済成長を犠牲にしないで資源枯渇・環境破壊を食い止め、未来世代への加害を防ぐという工夫の正当性は、一定の限度内では当然認められる。
しかしカトリツク教会には、この現代の問題に関して、固有の貢献責任があると思われる。それは、この問題解決には「人間は自己の欲望を制御する必要があり、欲望を際限なく肥大させるのは自滅を招く」という真理の自覚こそがまず求められることを現代杜会に訴える、という責任である。
資源枯渇や環境破壊も、とどのつまりは、近代人が進歩した科学技術を手に、自己の無限に肥大する欲望の充足に血眼になって開発・発展を目指した結果が引き起こしてしまったものである。創造主である神に地球の管理を委ねられている人類が、これを完全に自己の支配下にあるものと勝手に思いこみ、欲望をエスカレートさせながら纂奪をほしいままにしていった愚行が招いたものである。
人間の欲望は理性でふさわしく制御され、その支配下に正しく機能すべき定めのもとに神から与えられているのであり、暴走すると人間を破減に導く危険があることを、人類は啓示によって教えられている(創世記1-11章)。現代世代が未来世代の生存を脅かしているという事実には、歯止めのかからないエゴイズムに駆られ無限に肥大する生活の快適への欲望の充足を求めて突っ走っていく人類は自減の危険がある、との警告の意味があるのかもしれない。
進歩主義と成長至上主義、そして科学万能主義に毒され、技術、学問、杜会制度の向上によって未来世代は自分たちよりもずっと幸福になれる、と無邪気に信じこんできたわれわれ現代世代は、問題の真の解決には、経済成長と現世的生活の快適の向上という至上目標はそのままにして技術の改良・向上に努める、という方式では不十分で、まず、自分たちのエゴイズムと欲望の制御という禁欲の重大な課題があることを、心底から真剣に受け止めてかからねばならないのである。