17世紀のはじめ、徳川幕府による本格的なキリシタン迫害がせまっていた頃、殉教者となるための教えが作られ、キリシタンの人びとに伝えられました。これは単に信仰のために命をかけるという以上の、全身全霊を主に捧げた殉教者の気高い生き方を実際にあらわしています。
殉教に比べて、現代に生きる私たちにとって小さいことではないけれども、死に至るにはほど遠い日頃の苦しみを現代の殉教とみなしやすい中で、この殉教者となる教えとしてまとめられた「殉教の心得」を改めて学ぶ意義は非常に大きいと思います。
以下は、大正14年に同文館から発行された文学博士姉崎正治著「切支丹宗門の迫害と潜伏」の中から「マルチリヨの心得(229〜239ページ)」を私が個人的に分かりやすく訳出したものです。原文は文語体であり、当時のキリシタン用語が多く使われ、またラテン語、ポルトガル語が原語のまま混在し、ところどころには読みとれない欠落もあります。私は技術者にすぎませんので、専門的な翻訳ではなく、これまで40数年、カトリック信徒としての生活体験からその意味を汲み取ってまとめたものであることをご理解ください。
殉教の心得
迫害があるときの、キリシタンの信仰の心がけについて
キリシタンが禁制になったとき、その心がけを教える司祭、修道士がいないところでは、罪にならないことでも罪になるかと思い、罪になることを罪にはならないのではないかと迷うことが多い。そこでこれをはっきりするためにこれを書き上げた。これは4つに書き分けた。
第1には、全てのキリシタンは信仰を固く守ることであり、第2には、信仰に背く罪とは何か、またどんな行いにより信仰を失うかということ、第3は、信仰に背かない行いについて、第4に、殉教に直面したときどう覚悟をしたらいいかである。
第1 キリシタンは信仰を固く守ること
キリシタンは、イエスの教えを神の教えと信仰しているものであるから、必要な時にはその信仰を言葉に表し、行いに表さなければならない。神は、人間に精神と身体を与えたので、このどちらも大切にすることは当然である。精神の働きとして心の中でキリストの教えを信じ、身体の働きで信仰を言葉に、あるいは行動に表さなければならない。このことについて聖パウロは、「心では教えを信じ、大切なときに言葉と行いによってそれを表すことにより救われる」と言っている。
第2 信仰に背く行いは何か、どのような行いにより信仰を失うか
1、心の中では背く気持はなくても、人に向かって自分はキリシタンではないと話すことが、一番深い罪である。また言葉に出さなくても他の宗教と見える行いをすることも罪である。仏教の数珠を手にするなどのことは全く行ってはならない。
2、キリシタンではないかと取り調べを受けるときに、キリシタンかと尋ねられたらはっきりキリシタンであると答えること。
3、役人を恐れて信仰を捨て、そのことを口に出すことは、大罪であり、信仰も失う。言葉に出さなくても心の中でキリシタンの信仰を捨てることは、大罪であり、信仰も失う。心の中の信仰は変わらなくても、口に出してキリシタンを捨てると言う場合は、信仰を失うことはないけれども、大罪である。キリシタンを捨てろと言われて、指示通りにするとか、キリシタンを捨てるとか、自分にはキリシタンの信仰はないということも同じである。
4、誰でもキリシタンかと尋ねられたとき、自分はキリシタンではないとはっきり答えてはならない。まして取り調べに置いては、わたしはキリシタンだと答えなければならない。
5、役人の取り調べではなくて、からかわれたり、そのときの会話の流れで、お前はキリシタンかと尋ねられたときは、はっきり答えなくてよい。またその雰囲気を変えるために、なにげなく他に話題を変えることは罪ではない。
6、キリシタンが禁じられているため、心の中では信仰を保っているつもりでも、追求の恐ろしさに負けて、神仏のお守りを用いたり、拝んだりしてキリシタンでないような行いをする場合は、大罪である。ただし信仰を失うのではない。もしこのような行いで大罪を犯した場合、心から悔いて許しを願い、今後信仰に背いた行いはしないと堅く決心し、出来るだけ早く告白を行って信仰を取り戻すこと。
第3 信仰に背くことのない行い
1、キリシタンを厳しく取り調べ、分かればすべて死罪となる状況にあるとき、もし自分に対して、お前はキリシタンかと尋ねられないときは、自分からキリシタンであると名乗り出なくてよい。しかし、自分に対して尋ねられたときはそうであると答えなければならない。もし自分がキリシタンのことを教える役目にある教師でありながら名乗り出ないために、人びとがそのことを批判して、まだ信仰が強くなっていない人が迷うような時は、自分から進み出て名乗らなければならない。この例は聖セバスチアンに見られる。
2、キリシタンを探索して捕らえようとしている場合、そこを立ち去って他の場所に移ることは差し支えない。これは信仰を述べないで済むために離れるのである。イエスの言葉にも、「ここで責められたら、他へ立ち去れ」とある。ただしそこを立ち去るまいと思ってそのままいてもいい。然し厳しい取り調べで自分の信仰を守る自信がない場合は、その場所を立ち去る方がいい。
3、住む場所を変え、他の場所に住むことも差し支えないと同じように、その場所で人に見つからないように隠れて住むことも罪ではない。それは信仰を失わないためにそうするからである。
4、キリシタンの取り調べに当たって、ロザリオとか御絵などを隠しておくことは差し支えない。これも信仰について述べることを避けるためである。
5、これらのことは差し支えないが、神社に参拝してお守りを用いたり、仏教の念仏を唱えることは行ってはならない。キリシタンのしるしを隠してどんな宗教も信じていないと見えるようにすることはかまわないが、仏教とか神道と見えるように行動することは罪である。例えば山伏の姿をするなどである。
6、キリシタンを嫌う主人に仕えているときは、ロザリオなどを主人の目にとまらないようにした方がいい。行いについてもそうである。また特に神社や寺に対して敵対的な態度をとらない方がいい。そのことでキリシタンに対して悪意を抱かせることになることである。神道や仏教の人たちからキリシタンを恨まれないようにするのである。しかしもしキリシタンを迫害するようであれば、その苦しみを喜んで忍ばなければならない。
第4 殉教を迫られるほどの苦しみに直面したとき
1、殉教は死ぬことである。まず殺されることを喜んで忍ぶこと。たとえどのような苦しみを耐えても、死ななければ殉教ではない。死ぬということは、首を切られたり、火あぶりで焼き殺されたり、磔にされて殺されるだけではない。例えば食べ物を与えられずに飢え死にしたり、流刑にあっている間に死んだり、牢獄の中の苦しみに耐えかねて死ぬこと、あるいはそのほかの苦しみの中で死ぬことがあれば殉教である。
2、思慮分別あるものが処刑されるとき、その刑を避けず喜んで耐え忍んで受ける場合は殉教である。もしその処刑をいやがる態度を示して死ぬことがあれば殉教ではない。分別のない子どもの場合は、それを避ける気持も生じていないので、殉教である。例えば母の乳房を含む子どもは、キリシタンではないといっても、母と一緒に殺されたなら、母はその命を主に捧げたのだから、母も、子も殉教である。幼子がまだ洗礼を受けていない場合でも、お腹の中にいる子でも、母がキリシタンということで殺されたなら、子どもたちもみんな殉教である。
3、死刑に処せられる理由として、キリシタンであるからということだけでなく、善行をするとか、悪事をしないとして殺されれば、これも殉教である。
4、このことから、もし人がキリシタンであることを理由として、財産を失い、辱めを受け、厳しい暴行をその身に加えられた場合、その徳は非常に大きいものである。しかし、死ななければ殉教ではない。命がある人が殉教者になることは決してない。
またキリシタンとして処刑されようとするときに、それを防ぐために抵抗し、防戦してついに叶わずに負けて殺された者は殉教ではない。それは主に対して自分から命を捧げたことにならないからである。聖マウリイショは、ローマ軍の士官で数千騎の大将であったが、敵を防ぐために少しも戦わず、兵器を投げ捨てて殉教者となった。
もし、仕えている主人が、その勤めに怠りがあったとして奉公人のキリシタンを死罪にするとき、その刑を喜んで受けたとしても殉教ではない。それは、その処刑の目的がキリシタンであるからではなく、また善い行いによるものでもないからである。
5、殉教に直面して、まだ告白していない大罪がある場合は、告白の機会があればまずその罪を告白すること。告白する機会がありながら告白しなければ、殉教ではない。ただし、その場所に司祭がいない場合、あるいは司祭がいても妨げがあって告白できなければ、犯した罪を悔い改め、今後たとえ命を失っても主の恵みによりこの罪を再び犯さないと心に決めて死ぬ場合は、殉教によって、罪の許しをいただいて、洗礼を受けたときのように煉獄の苦しみを免れる。そのために殉教を血の洗礼という。また告白のとき告げない罪があっても、取り調べの責めに合って想い出すことができない罪があり、悔い改めることができなくても、主に対して命を捧げることによって天国に入る。
6、もし自分はキリシタンであると白状しなかったとしても、罪を犯すことを断って処刑された場合は殉教である。
7、神仏を崇敬せず、そのしるしのお守り札などを使わないとして処刑された場合は殉教である。
8、説教をするか、人にキリシタンになることをすすめたとして処刑された場合は殉教である。
9、殉教に直面して厳しい責めを恐れて信仰がゆらぎ始めた人に、側から声をかけ、励ましたとして処刑される場合は殉教である。また殉教に当たってそれにふさわしくない行いをしようとする人を見つけて、その人を助けて立ち直らせたとして処刑されれば、殉教である。
10、殉教者の死骸を埋葬し、その遺骨などを敬ったとして処刑されれば、殉教である。
11、キリシタンを広める説教師などを自宅にとどめたり、匿ったりしたとして処刑されれば、殉教である。また説教者の知人のキリシタンを大切に扱い、家に招き、もてなしたとして処刑されれば殉教である。
12、取り調べの時、他のキリシタンを教えないからという理由で、あるいは説教者を訴え出なかったとして処刑された場合は殉教である。
13、キリシタンが処刑されるとき、他の場所に逃げたり、隠れたりすることは差し支えないが、もし殉教の希望に燃え立ち、自分から進んで名乗り出て処刑されれば、優れた殉教者であり、その徳も極めて大きい。すべての中で一番大切な命を、自由意志で喜んで主に捧げたからである。
このことについて迷うことがないように、司祭がいれば相談すること。もし司祭がいなければ心の中の望みの通りしたらよい。しかしこのとき、まず自分の力を頼らずに、ただひたすら主を頼み、主に命を捧げたいので、そのために強い心を与えてくださいと祈ること。次いで、世間の評判を基準とせず、ただ主の栄光を考え、自分の魂が神の国に至る道のことを考えること。
14、殉教が近づいていると分かったときの覚悟は、まず告白すること。もし告白が出来なければ悔い改めること。そのためにはこれまで犯してきた罪を思いだすこと。次いで主の恵みにより、これから大罪は犯さないと決心して罪の許しを願うこと。また殉教の苦しみを受ける恵みと、苦しみを耐え忍ぶ強い心を与えて下さるようにと主に願うこと。
死刑を宣告する役人、および処刑役人に怨みを持たないこと。彼らのおかげで天国にいくことが出来るのであるから、彼らを正しい道に導いてくださいと主に願うこと。
責め苦を受けている間は、イエスの受難を目の前に思い浮かべ、主イエス・キリスト、聖母マリア、すべての天使と聖人に対して、神の国から私の戦いを見物して、天使は冠を捧げて私の魂が上がって行くことを待っていて下さいと願うこと。このときには、主から特別の力をいただけるので、それに深く寄り頼む心を持つこと。また出来ることなら、その場に居合わせる人びとの魂の救いとなるような言葉を少しでも伝えることが望ましい。例えば、キリシタンの教え以外に人の救いの道はない、私は今この教えが間違いないということを証明するために命を捨てるものである、この教えによって限りない栄光を受けることができるのであり、これ以上の喜びは他にないということを言葉を尽くして伝えること。しかし、このことは、言わなければならないことと思うことはない。その時になって、主が心の中に教えてくれるので、その導きに従えばよい。
以 上