殉教の心得

 数ヶ月前に、「殉教を覚悟する」というタイトルで次のように書きました。

 私は、殉教を自分のものとして考えるということは、信仰生活を生きるというのではなく、生命をかけて生きるということだと思います。信仰を守るために日常の苦しみを耐えること(程度)だと考えることは、殉教者を軽く見るようにすら思えるのです。信仰を守るために犠牲を払うことは、洗礼を受けたときからの覚悟なのです。
 188殉教者の列福について、ベネディクト16世が署名した今年、カトリック教会で「殉教」、「殉教者」について、いろいろ話を聞く機会、考える機会、話し合う機会が作られていますが、私から見ると、甘い。実に甘い。多くの場合、洗礼を受けてから信者として当然覚悟しているはずのものを「殉教」にすり替えている。これでは殉教者を冒涜しているようにすら思えるのです。

 あるキリシタン研究の著名な学者の話を聞いて、当時「殉教の心得」というのがあったことを知りました。その本をウェブで探したら、醍醐中央図書館にあることが分かりましたので、近くの図書館に依頼して取り寄せて貰おうと思っていましたら、幸い京都キリスト教文化資料館にあることが分かりましたので、借りて帰りました。その本というのは姉崎正治著「キリシタン宗門の迫害と潜伏」大正14年発行のものです。
 これからゆっくり読みくだくつもりですが、見つかったら死しかなかった当時のキリシタンが、どんな信仰と心情で生きたか、うかがえ知れます。殉教を考えるというのは、わたしは真剣にこのことを考えて生きることだと思います。(2007. 8.30)