数ヶ月前に、「殉教を覚悟する」というタイトルで次のように書きました。
私は、殉教を自分のものとして考えるということは、信仰生活を生きるというのではなく、生命をかけて生きるということだと思います。信仰を守るために日常の苦しみを耐えること(程度)だと考えることは、殉教者を軽く見るようにすら思えるのです。信仰を守るために犠牲を払うことは、洗礼を受けたときからの覚悟なのです。188殉教者の列福について、ベネディクト16世が署名した今年、カトリック教会で「殉教」、「殉教者」について、いろいろ話を聞く機会、考える機会、話し合う機会が作られていますが、私から見ると、甘い。実に甘い。多くの場合、洗礼を受けてから信者として当然覚悟しているはずのものを「殉教」にすり替えている。これでは殉教者を冒涜しているようにすら思えるのです。