ジェズ教会の宝、日本26聖人処刑図

殉教を覚悟する

 2007年は、188殉教者が秋に列福されるということになり、私は真剣にどう生きることが殉教者の精神を受け継ぐのか、考えています。

 今の日本のように信仰の自由がある国で、文字どおり生命を捨てるか信仰を捨てるかと迫られることはありません。だから今の時代では、神の国に反する今の社会のある状況に対して、犠牲を払ってイエスに倣った生き方をする、日々の苦しみをイエスのために耐え忍ぶ、それが殉教であるという言い方がよくされます。

 私は、殉教を自分のものとして考えるということは、信仰生活を生きるというのではなく、生命をかけて生きるということだと思います。信仰を守るために日常の苦しみを耐えること(程度)だと考えることは、殉教者を軽く見るようにすら思えるのです。信仰を守るために犠牲を払うことは、洗礼を受けたときからの覚悟なのです。

 殉教は生命をかけることです。もちろん死に方ではなく、生命をかけて日々どう生きるかということです。

 ある分かち合いの場で、2人の言葉がヒントになりました。1人は2001年に新大久保駅のホームで線路に落ちた人を助けようとして生命を落とした2人のことを想い出したという人、もう1人はやはり2001年に池田小学校で起きた殺傷事件のあと、もし同じようなことが自分の幼稚園で起こったら園児を身体を賭して守ろうと覚悟を決めたシスター。

 私は、殉教というのは、他人のために生命を落とす覚悟をして生きるということではないか(他人のために役に立つように生きるというようなものではなく、生命を落とす危険性があることにでも恐れず立ち向かうということ)と思い始めました。

 日頃の生活ではちょっとした親切でも、いつも心がけていないとうっかり見逃してしまいます。まして生命をかけるというような場面がどこにでもあるわけではありません。今の私にはそれほど勇気はありませんが、他人のために生命をかけて死ぬことが、本当は私の理想の生き様かなと、迷っているところです。私が死ぬときは、他人の生命を救うために自分の生命を投げ出して死ぬという状況に出会いたいと、願うことが出来るようになったらなあと(今はとても出来ませんが)思っています。