池長大司教の「

池長大司教の「福音に生きる」

 2000年度京都教区の聖書講座は「旅する神の民」というテーマで、20回行われました。この中で、大阪大司教区の池長大司教が「死から生命への旅」として、10月18日(水)、夜7時半から9時まで、お話になりました。このときの最後のまとめのお話を聞いて、わたしは「福音に生きる」ようになりたいと思い、「わたしの福音の世界」のホームページを開く大きなきっかけの一つとなりました。そのお話の内容です。

―― あがないについての話の最後のまとめとして ――

 あと30分くらいですから貴重な時間なのでぼちぼち全体を見るようなまとめに入りたいと思います。どうして私があがないの話をしようと思ったのかといいますと、結局人生というのは死から生命への旅なんですよね。わたしたちは本当に生きなければならない。神様から与えられた貴重な自分の存在と生命を、本当に生きなきゃいけない。人生が本当に生命に満ちたものになるために何がいるのかというと、やっぱりわたしたち一人ひとりが徹底的に神のものとなっていくということですね。自分だけでなく、教会共同体も神のものとなっていかなければ、命を失いながら生きているということになるのですね。神のものになりきっていくということをちょっと視点を変えてみると、何が見えてきますか。一人ひとりに対して、あなたはこんな風な心を持って欲しい、あなたは人に対してこういう風に生きて欲しい、科学の技術をこんな風に使ってはいけませんよというように、神は一つひとつのことがらにはっきり意図を持っていますね。わたしたちが神のものになるということは神様のみ旨にそったような自己形成をしていくということなんですよね。

 だから非常に大事なことを最後にお伝えしますとね。イエス様は生涯をかけて何をわたしたちに表されたのでしょうか。特に公生活においてね。イエスが一番表現したかった内容はなんですかと質問されたら、わたしたちはみんな一律に答えるはずですね。神の国というとおん父の国ですが、それを一番表現したかったですよね。これ明かですよ、聖書学者は全部認めています。イエスが表現したかったのは何かというと、おん父の国です。だから公生活に入ったとき、あっちの村にいってもこっちの町にいっても、最初に語られたのは何ですか。最初に神の子としての自分を表現しはじめられたのは、「神の国は近づいた、だから回心して福音を信じなさい」という言葉です。

 大聖年のとき教皇が大きく世界中に「回心しなさい」と投げかけられたでしょう、教皇の言葉は本物を言っているわけです。中途半端な、なんだか意味の分からない回心ではありません。教皇の言葉はイエスの言葉と全く同じだと思います。

 イエスはあっちでもこっちでも、神の国は近づいた、だから回心して福音を信じなさいと言われた。これはよっぽど大切なことでしょう。神のおん子が人間となって地上に現れて、公にあっちでもこっちでも必ずおっしゃったことはこれですからね。近づいたと訳されるこの言葉は、ものすごく切迫し、接近しているというニュアンスなんですね。つまりおん父の国は今、イエスが口を開いて人々の前で説教し始めて語られたその時に、話を聞いている人々にここまで接近したのです。他の個所から照らしてみても分かりますけどね、イエスが、接近した、ここまで近づいてきた、切迫している、あなた方の目の前まで迫ったと言っておられるのです。

 地上生活の間十字架で亡くなられるまでは、神の国というのは、イエスという人物において顔を出しているのです。おん父の国とはどんなものか、その性質、特徴、そういうものはイエスという人物において完全な形で顔を出したのです。だから逆に言えば、もしおん父の支配を受け取り、み旨を受け取って生きようとしている人であれば、その度合いに応じてその人において神の国はそこに表れるでしょうね。イエスの存在そのものは、神の国の表現であり、おん父の国、み旨、考えていらっしゃる考え、そういうものの表現であったのです。イエスご自身は、完全におん父の支配の中に生きておられた。人間となった神のおん子イエスは、完全に父のみ旨の中にとどまっているのです。ですからイエスに触れればおん父の国がどんなものか分かるのです、これが本当の宣教師ですよ。神の国を宣教する完全な宣教師です。だからおん父の国の中に生きていればどういう風に生きるかということは、イエスという存在において完璧に表れたんですね、人々の目の前に。これは歴史の中で初めて起こった表れであり、これがイエスの時代です。イエスが一番もたらしたかったのは どうも神の国らしいと言われますね。聖書学の発展によってだんだん分かってきた。おん父の支配、おん父の国を地上に入れ込みたかったということです。

 人間の有様とか、人間の社会のあり方とか、ずいぶんおん父の意図しておられたものとはずれている。自分たちで勝手に習慣を作ったり、価値観を創造したりして生きていた。特にファリザイ人なんかがよくイエスとぶつかるのはみんなそうです。今自分の目の前に苦しむ人がいて、自分がその人を癒す力を持っていたとしても、安息日には医療活動をしたらいけないというのです。それはおん父のみ旨ではないのですよ。とんでもない、人間が作った勝手な律法ですよ。イエスは自分がそういう貧しい状態におかれた人を目の前にしたら、自分が癒す力を持っているから、安息日であろうがなかろうがその場で癒しちゃう。こんなところでもファリザイ人と真っ正面からぶつかっているのですね。ザアカイの場面というのは、イエスが被差別部落の人に対して、今晩あなたの家に泊めてくれないか、と群衆の前で平然というわけですよ。みんなびっくりするのです。でもザアカイという人はおん父から愛された大切な、大切な一人です。わたしたちがいま目を開かなければいけないのはこのことです。

 宣教者イエスに触れて、今までカトリックはちゃんと宣教してきたかということをちょっと考えてみなければなりません。教理を教えて一人でも多くの人に洗礼を授けるということは、イエス様の最後の昇天のところで命令として与えられているわたしたちの使命ですから、これを怠ってはいけません。けれども宣教師としては、もっともっと広い宣教をやっていかないと、つまり神の国を宣教できないとだめですよ。教理を教えることも大事にしてください、イエス様の命令ですからね。昇天の時にあなたがたは全世界に行って、一人でも多く洗礼をさずけなさいと、洗礼まで云っておられますよね。あれは今後もずっと続けて行かなければなりません。だけど宣教と洗礼は一体化された形で考えるものであり、二つに分けて考えるのは正しくない。神の国を宣教できず、ただ信仰箇条の内容だけ人に与えて洗礼をさずけていくというのではどうもだめです。

 つまりおん父はどんなことを望んでいらっしゃるのか。どんな社会を作っていかなければいけないのか、どんなに人を大事にしなければならないのか、それを考え、行うのが神の国の中に生きる人では常識なんです。おん父のそういう国を表現することができるようにわたしたちは宣教していかないと、力がないですね。貧しい人たちを大切にする、そういった宣教活動も表現ですからね。見せびらかすためにやるわけじゃないけれど、思わずやってしまわなければならないことなんです。ところが今の人間の世界の状態は具体的にいうと、もうひどいことがあの国でもこの国でもしょっちゅう行われているのですね。ナチズムでああいうものが終わったかと思っていたらとんでもないことです。私も関わっている東チモールでごく最近何が行われているかというと、大虐殺ですよ。あっちの町でもこっちの町でも、もう500人600人をくだらない人が一時に殺されている、一体何ですか人間というのは。そういうものが神の国と全く違う人間のあり方ですよね。そういうことを平気でやっていくということが、考えられないけれど実際に起こっているんですよ。

 あなた方はずっとお祈りをするたびに考えていらっしゃったと思いますけど、イエスは天にましますを祈りなさいと教えてくださった。み国が来ますようにとあるでしょう、わたしたちがみ国に入れますようにという言葉で教えていませんよ、み国が来ますようになのです。神の国はあそこにあるかしこにあるというものではなく、あなた方の間にあるとおっしゃるのですね。ここにあるはずです。神の国に所属している人たちからみると、東チモールの大虐殺という行動はとんでもないことです。あちこちに地雷をうめてとにかく敵を殺せばいいのだと言っている、その後押しを誰がやっているのですか、あれが人間の姿ですよ。わたしたちは兄弟ではないですか。とにかく福音に生きるということは、今日聖書をいろいろご紹介したように、わたしたちは本当に神を知り、人間を知り、神の前における人間はどうあるべきかということを知って生きることです。自然科学だけが一方的にどんどん技術を開発していって、何でも出来るなんていうことを考えている学者もかなりいると思いますけど、とんでもないですよ。人間の幸福を作らないで人間を否定するようなものをどんどん作っていくのはひどいですね、原子爆弾も作るのですから。

 わたしの全体の話はおわかりいただけたと思いますね。わたしたちは常に旅路にあります。あがないの旅なのです。神様ははわたしたちをあがない続けて、ますます自分のものにしようとしておられる。そういう流れの中に入るときに初めて、生命への旅をわたしたちは生きるのですね。こういう旅をしないとわたしたちは死の中にとどまっているのです。わたしたちは死から生命に移っていかなければならない。しかも出来る限りすべての人と。一人でも多くの人と手を繋ぎながらそういう過程の中に、旅路の中に入っていかなければいけない。そのときはじめて本当にイエス様の復活の生命に参与して、イエスと共に生きるようになるのです。自分の中に復活されたイエスがおられるのですから、イエスと本当に一緒に生きていく人になるわけですね。イエスによって清められる、イエスの死に参与する、これは別のきれいな意味の、最高の意味の死です。イエスの死というのは、人間を滅ぼす死の意味ではなくて本当にわたしたちを神のものとして清めるための死ですね。神はご自分の中にわたしたちの生涯を例外なしに全部償いをさせておられるのです。

 この方が私の中でおん父のみ旨を自分の生活において実現するように促しておられる。神の国というものはすべてを負うんですね。わたしたちの心の動き、そしてわたしたちの家族関係、わたしたちが毎日毎日生きている他の人々との出会いのありかた、国の政策とか、教育の場の教育の在り方までやっぱり、神様のみ旨に沿ってそこにそれが実現していかなければ、神の国はそこにはない。だからわたしたちが本当に神の国の中に生きているということが、死から生命の旅じゃないですか。イエスはそこにわたしたちを強く招いておられるということなんですね。

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