カトリックで小さい人というとき、それは貧しく、名もなく、社会に虐げられ、いろいろな悩みを抱えている人であり、カトリック信徒はそれらの人びとのことを忘れず、心を配り、その人たちのために祈り、献金をすることがイエスに従う道だとよく言われます。ただ、「小さい人」というとき、それは自分のことを「大きい人」とは思わないでも、小さい人ではないという意識が隠れているようで、少し気になるところではあります。
身体で言えば私は背は低く、小柄で、子どもの頃から背が高くなりたいとよく思ったものです。年頃になってから、好ましい女性にもてないのは、背が低いからと思い悩んだこともあります。年をとってからは、背が低い人にアシジのフランシスコとか、ナポレオン、源義経、晏子(あんし)などがいることが分かり、それほど気にならなくなりました。私は講演を聴くときなど前の方の席に好んで座ったものですが、今から考えると私が図体が大きかったら、みんなの迷惑になるから後の方の席に座らなければならなかったので、小さくて良かったなと感じます。
ここでいう小さい人というのは、身体のことではありません。このところ、私は自分という人間の小ささを感じて、少し落ち込みかけています。応分の年をとって、「あの人は紳士的」とか、「人格者」、「人間ができている」と言われたいなあということはまだありますが、そこまではなれなくても、「人間が小さいなあ」と言われないように生きたいとは思っているところです。ところが最近他人の小さなことが気になって来ており、自分は自分、他人は他人、それぞれの生き方があるのだからと自分に言い聞かせても、なぜか気になるようになって来ているのです。
私が受け取るEメールの宛先に、「○○さま」と書く人がいるのです。私はずっと以前から、目上、同僚にはどんな場合でも「様」を使っていて、私の子どもに対するときだけ「さま」を使っていました。Eメールは現代的なコミュニケーションの方法ですから、敬称など古いことを考える方がおかしいのかも知れません。まして、自分宛に来るものは、他人が付けてくれる敬称に注文を付けるのはまずいとは思います。自分を尊敬しないとか、お辞儀をしないと言って怒り出すような人は軽蔑していました。そう言うことは身からにじみ出ることだと考えていたのです。
それが、とうとう私が感じるようになってきたのです。まあどうでもいい人からどんな手紙やメールが来ても気にしませんが、それなりの人から「さま」で送られてくると、少しずつ気になるようになってきて、いろいろ悩んだあげく、私の方から相手にその事を伝えました。メールのやり取りですが、2人の人に言いました。2人とも快く私の気持ちを理解してくれて、その後メールの私に漢字の「様」を付けてくれるようになりました。
今の大きい問題は、そのことを相手に「言わなきゃ良かった」という自己嫌悪が今でも続いていることです。言わなきゃ良かったことを口に出して後悔したら、もう次回から二度と言わなきゃいいことなのですが、どうにもさっぱりと忘れることが出来ません。
「禅のちょっといい話」を思い出しました。ある高名の禅僧が若いときに、知人の禅僧と連れ立って旅をしていました。美しい娘が瀬の流れが速くて怖いので渡ることができないのを見て、わたしに掴まりなさいと言って抱いて渡してやった。連れの僧はそのことが気になってしばらく歩いていたが、とうとう我慢できなくなってこの禅僧に「けしからん、若い坊主が女を抱くとは」と言った。若い禅僧は高笑いして、「なんだ、貴公はまだ女を抱いておったのか、わたしはあのとき全部下ろしてきてしまったよ」と言ったという話です。
これと同じように、もう言わなければいいことを言ってしまったとしても、そのことをいつまでも気にせずにさっさと忘れることでしょうね。そうしましょう。