あふれる喜びに生きる



私は土で作られて、土にかえります。

 「主なる神は、土の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」これは旧約聖書の創世記に書かれていることです。私には、神が粘土細工のように土をこねて人の形を作ったとは思えませんが、私はそこそこの知識と経験を持ち、そこそこの身体的な能力を持ち、そこそこの衣服を身につけてまあ格好よくしていますが、しょせん土からできたもので、そう遠くなくまた土にかえるものだというのは、自然で素直な考えであり、実感することができます。

 今年の聖書講座で、聖パウロ修道会の西 経一神父は、「泥からできた人はみんな同じである。社会の中では、財産、地位、知識、外見その他、細かいことでも全て比べ合い、争っている。しかし他人と比較して、競争して一喜一憂しているのは、罪にとらわれて生きているものである。罪にとらわれないでキリストの恵みの中に生きる新しい自分になると、そこにはあふれる喜びがある。どんなに自分がつまらないと思っても、自分が神に喜ばれる存在であることがわかる。奇跡によってパンを増やして5000人が満腹した後残った12篭のパンの一切れも、荒れ野の誘惑で悪魔がパンに変えるように勧めたとき、『人はパンだけで生きるのではない』とイエスが言われてパンに変わらなかった石ころも、みんなキリストの偉大さを表し、愛の大きさを表すものである。」と言われたのがこころに残りました。

 私は、その数日前に聖母女学院で聴いた中島哲夫牧師の話を強烈に浮かんできました。中島牧師は、恐喝、傷害、拳銃所持、麻薬など、悪いことはなんでもしたという、明日のないやくざ生活20年ののち、キリストに出合って回心し、自分のような者でもキリストから罪が赦され、いちからやりなおして救われたのだという全身からあふれるよろこびを叫びました。これが本当のよろこびの声だと感じて目頭が熱くなるほどでした。その声がまだ耳に残っているのです。

 私は福音に生きて、神の国に生きるのだと決心しているのですが、それがどんな生活かはっきりイメージが掴めませんでした。上の二人の話で目が開かれた気がします。  毎日、神の恵みをいただいて、あふれるほどの喜びを感じて生きていこうと思います。

毎日、神の恵みをいただいて、あふれるほどの喜びで生きることです。喜んで生きれば、いつも笑顔でいることができます。