ノーベル賞受賞者ワインバーグの「究極理論への夢」を読んで深い感動をいろいろ味わったが、その中に科学分野での究極理論は、芸術ではラファエロの「聖母子」はどの個所を取っても完成されていて一筆書き加えるところ、消すところなんかないと述べている。優れた音楽についても、その中から音符の一つも書き加えるところも取り去るところもないと述べていた。右の絵はラファエロの「小椅子の聖母」であり浅田神父の遺品の中からいただいたものである。ラファエロの「聖母子像」はいろいろあるが、ワインバーグ博士の完成した絵というのは、私もとても気に入っているこの絵のことではないかと思う。
ワインバーグは、ある絵画、ソネット、文学作品の中に完成されたものがあると見ている。シェークスピアの劇は『エディプス王』のようなぜい肉を落とした完全な構造ではないという。ハムレットにしてもそれは、大きなごたごたした構成物であり、それがごたごたしているのは人生の複雑さの反映なのであると博士は述べている。もちろんこれらの意見は芸術論ではなく、完成に近い相対論との対比で述べているのだが、私はそれらの考えに対して、芸術はあくまで主観的なものであり、「聖母子」が完成されていると思う人にはそれでいいし、完成されたものではないと考える人がいてもそれでいいと思う。日本でいうと、すぐれた「俳句」は一言一句変えるところはないものがあるし、また多くのすぐれた「和歌」は31文字一言一句と言えるかはともかくほぼ完成に近いものであると思う。しかし結局芸術分野は個人的な感覚の領域であり、博士は自ら求めている究極理論のイメージを分かりやすく説明するためにそう述べているのだと理解する。
宗教も同じような世界であり、信仰に入った人間が信じるところに不完全なところはあり得ない。たとえ聖典の内容に相矛盾する内容とか、自然科学に反する内容が記述されていても、それは絶対者の完成を証しすることに役立っても、多少ともマイナスイメージになることはない。技術者の私はそこが自分の所属する教団に対して不満に感じているところではある。