日本最初の殉教者二十六聖人ゆかりの地
「南蛮寺とだいうす町」
日本が最初にフランシスコ会士を迎えたのは、1582年〜83年のことです。彼らが日本に滞在したのは。わずか2ヶ月位のことでしたが、多くの人に深い感銘を与えて日本を去っていきました。
それから10年後、1593年ルソン(フィリピン)総督の使節として、ペトロ・パプチスタ神父以下4名のフランシスコ会士が日本に派遣されました。
この頃日本は、1587年に豊臣秀吉が出したキリスト教禁教令(天正禁令)のもとにあったのですが、肥前名護屋で秀吉は、会士達を快く謁見し、数ヵ月後には、京都の妙満寺跡の広大な土地を神父達に与えたのでした。
バプチスタ神父達は、ここに修道院を建て、その一部をルソン使節館としました。また、通りに面して教会を建て、京都では初めての西洋式病院を二つ開設しました、聖堂と修道院は、「天使の元后なる聖マリア」に、病院を「聖アンナ」と「聖ヨゼフ」に捧げ、当時見捨てられていたハンセン病患者や貧しい病人を収容し、心を込めて世話をしました。
フランシスコの兄弟達は、この頃すでに訳されていた「聖者の花」(小さき花)の中に見られるような聖フランシスコや兄弟達の生活を忠実に慕う友であることを、その生活態度で示し、多くの人々も彼らの周りに集まってきました。
修道院近くには、200名以上のキリシタンが移り住み、都の人々はここを「だいうす町」と呼び、自分達は「諸天使の元后の町」(ロス・アンジェルス)と呼んでいました。
1596年のことです。突然秀吉は京・大阪のキリシタン捕縛を命じ、12月9日レオ烏丸ら5名が捕らえられ、翌1597年1月2日未明には、役人達が修道院に踏み込み、バプチスタ神父以下12名も捕らえられました。
その修道院・病院・教会の跡が、ここ「フランシスコの家」と周辺です。