失われた時を求めてを読み始めました(2009.4)

 最初の東京単身赴任は30年ほどまえですから、その頃筑摩書房が井上究一郎訳の出版を始めたので、読み始めたのが最初です。順調に発刊の度に購入してかなり読み進んだとき、確か訳者の都合で途中を飛ばして最後の「見出されし時」が刊行され、ちょっと変だなと思いましたそれを読みました。後ほど中間の編が出された時、そのうちの1巻だけを買って読んだ覚えがありますが、何か意欲を失って、全編は結局読みませんでした。

 「失われた時を求めて」を読もうと思ったのは、実は「巨人の星」です。当時星飛雄馬が人気で、その時は私は巨人ファンでしたし、かなり後の方ですがセリフの中にこんなのがありました。「幸福は身体の健康にはよろしい、しかし精神を強くするのは心の悲しみである」そしてプルーストの失われた時を求めてからとありました。その頃いろいろありましたから、この言葉には心を魅かれて、いつか読んでみようという気持になっていたところ、筑摩書房の企画に出会ったのです。

 私は子どもの頃から小説と言えば頭の回転を楽しむ推理小説かSF程度で、長編文学を通読したのはさあ「戦争と平和」とかあといくつか程度でしたからかなりの覚悟をしたことは覚えていますが、結局この「失われた時を求めて」は完読してませんでした。

 定年で時間が出来て、近くにいい図書館も出来て、かなり本を読むことができるようになり、10年前近くに個人全訳を行った鈴木道彦氏の「プルーストを読む」を読んで、読みなおすときはこれにしようと思いました。 というのは、30年前に最初に読んだとき、本当に読みにくかったのを我慢して読んだという印象が残っていたからです。それは翻訳のためもあるのではないかと感じていたからです。

 今まず第1編の「スワン家の方へ」を間もなく読み終わろうとしていますが、今回、プルーストの本文の中にふんだんに出てくる意識、夢、記憶、愛、人生観などをさらに興味深く読んでいて、ふとこれは私の頭の中で動き続けている意識に似ているのではないかと思うようになりました。SFでテレパシーというのがあります。他人の頭の中の動きを知ることができるものです。しかしかねてからの疑問は、人間の頭の働きは、文字に書いたり、ビデオで見たりするほど整理されたものではないのではないかということです。ある女性が私を愛しているかどうかというような単純なように見えることでも、決断を迫られて気持ちを整理するか、振り返ってるかあとから考えをまとめればともかく、絶えずいろいろな心理の動きで揺れ動いているように思えます。そうすると他人がのぞき見ることが出来たとしても、そうはっきりしたものではないでしょう。
 そこで最初に読み始めた井上究一郎訳をもう一度初めの方だけ読んでみると、30年前に感じた思いは全くなく、これは翻訳の問題ではなくて私自身の長年の経験の差によるものではないかと思いました。

 プルーストが場面、場面で書きつづっているものは、私がなにか一つのことを熱中して考えるときでもいろいろな雑念、価値判断、過去の記憶が呼び起こしていることに似ているような気がし始めたのです。
 そのことで、これからさらに読み進めていく楽しみがとても大きくなったような気がします。

 時間が出来たとは言っても、私には他の趣味の三味線の練習とか、パソコンのウエブやホームページ、囲碁、カトリックなどたくさんのことがありますので、この大作を完読するのはまあ半年くらいかかるのではないかと思っています。