ガリア戦記は面白い

 BC58年か51年にかけて、ジュリアス・シーザーがローマ軍団を率いてフランス、ベルギー、ドイツ西部のガリア地方を平定した記録である。当時はライン川の東からゲルマン人が続々侵入していたが、もとからその地にいる多数の民族はローマの力を借りてそれを防ぎながら、またローマの属国として占拠されることも嫌ってさまざまな反抗を繰り返していた。

 「ガリア戦記」という名前は高校の世界史の中に出てきたような記憶があるだけで、それがどの地方のことはは意識にほとんど残っていなかった。10年数年前、福音書の中に、十字架に付けられたイエス・キリストの元にたたずんだ百人隊長の言葉「本当に、この人は神の子だった(マルコ15章39節)」があり、これが聖書講座で取り上げられ、そういえば「偉大な生涯の物語」でジョン・ウエインがこの百人隊長を演じたことを思い出した。このことをきっかけに、百人隊長(私が洗礼を受けた40数年前には百夫長と呼ばれていたような気がする)はローマ軍団の中でどの程度の階級なのか、もう少し知りたいと思った。部下が100人いるとはかなりの上級将校ではないか。旧帝国陸軍の階級でも中尉か大尉かも知れないと調べる気になった。

 そこで読み始めたのが塩野七生の「ローマ人の物語」である。初めからではなくて軍団が働きそうな個所として思いついたのが、ガリア戦記である。その中ではガリア戦記の全訳ではなく、要点をまとめて分りやすく解説されていたので、ほぼ全容を理解することが出来た。軍制で言えば軍団は6千人で構成されて、10個大隊からなる。1個大隊は600人編成。塩野七生の本には小隊長という表現も使われておりこれが百人隊長のことで、大隊は6個小隊で構成されているのではないかと思う。ヨハネ福音書18章12節に千人隊長という言葉があるが、これは大隊長のことかも知れない。ギリシャ語の原文を確かめたいと思う。

 昨年(2009年)の中ごろ、衛星放送でガリア戦記に描かれているローマ軍団のライン川仮橋の建設の再現を試みた映像が流された。当時の建築技術で、短時間に橋を建設することができるかどうか、実際にやってみる話である。ガリア戦記にはシーザーが建築技術者かと思われるほど詳細に記述されているので、それを忠実に再現して見せた。さらにその後、戦役の7年目に、最大の決戦でありローマ軍団も一時期きわどい状況に追い込まれたが最終的には勝利したアレシアの戦いが放映された。敵将ウエルキンゲトリクスを降伏させた戦役である。このときは、敵将の立てこもる城を取り囲んだ柵と、外部から民族の応援軍を防ぐための柵を二重に巡らせて、その間にローマ軍が取り囲まれる状況に追い込まれたが、これに勝利した。

 シーザーは最大で12軍団を率いてガリア遠征を行なっているので、総勢で7万人余り。これがガリア民族の連合軍30万人くらいを相手に戦ったということになる。もちろんガリア民族の中でローマに従った民族も多いだろうから、その戦力も、特にローマ軍にない騎兵の役割も大きかったようである。その中でライン渡河だけでなく、ドーバー海峡を越えてイギリスまで攻め込んでいることに驚いた。

 ここまで来て、「ガリア戦記」全文を読んでみたいという気になり、図書館から借り出して読んだ。ある程度地図は配置されていたが、馴染みにくい民族名と地名からあまり地図上でイメージがわかない。そこで分りやすい塩野七生と合わせて、結局両書を平行して読み終えることになった。もちろん塩野七生の中に出てくるガリア戦記の内容はシーザーの文の中に含まれている。

 印象に残ったのは、ガリア人に比べてローマ人は小柄であるということ。ガリア人は地の利を生かし、多くの他民族に呼びかけて共同してローマ軍に対抗するが、やはり軍隊として統制に大きい差があり、結局ローマの敵ではなかったこと。橋の建設、攻城兵器、やぐらなどの構築物、土木工事についてローマ軍ははるかに優れていたこと、そして何よりもジュリアス・シーザーの用兵術と戦いを鼓舞する力量、最後の山場で自ら先頭に立って赤色マンとをひらめかせて兵士を鼓舞して回った指揮官としての秀逸さである。
 このシーザーがガリア戦役が終わってからわずか3年後のBC48年に暗殺された。