ヘンジニア日記

2006. 5.11 にこにこ
  私が年に一回、全国会議で潮見の中央協議会に行ったとき、顔を見るのを楽しみにしている神父様がいらっしゃいます。いつもにこにこしておられるのです。まるで仏様のようです。カトリックの司祭に「仏様のよう」とは叱られそうですが、「むらのはずれのおじぞうさんは、いつもにこにこみてござる」という童謡を思い出します。

 今年は私もなんとかこの方のように、いつもにこにこしていることが出来るようにやってみようと決心しました。もっともそう思いついたのは今回が最初ではありません。何年も前に一度決心して、そのときは「笑顔器」を玄関に置き、朝家を出るときにそれに向かって一度「にっこり」笑いかけることにしました。なあに、「笑顔器」といってもただの鏡です。これは今でも続けていますが、実は朝一度にっこりすることは出来ても、それを続けることはなかなか難しいのです。近くの駅で電車に乗ると、とたんににこにこすることを忘れます。座席に座って向こう側の窓ガラスに映っている自分の姿をみると、「ああ、そうそう、にこにこしなければ」と思い出します。ところがそれも少ししか続かなくて、何かにちょっと気を取られるとすぐもとにもどります。どうやら人間の顔のゴムは、真面目な顔のときが自然で、にこにこするとそれを引き延ばした状態になり、いつももとに戻ろうとしているように思えます。

 私のこどもの頃は、男の子は白い歯を見せるものではない、と言われていました。真面目な話を相手としているとき、真剣に何かをしているとき、くちもとがゆるむのはあまりいい印象を与えません。テレビを見ていると、事故の責任者の謝罪の言葉とか、事件の被害者が厳しい言葉を述べるとき、しゃべると口元がゆるんでにこにこしているように見える人がいますが、これは気の毒に思います。

 普通の生活では、世の中の苦しみをひとりで背負っているような難しい顔をして近寄りがたい人よりは、柔らかい表情をいつもしている方がいいと思います。福音宣教する共同体になるということを身近なことでいえば、みんないつもにこにこしていて、外の人にもそれが自然に表れるというのが、イエス様の言われる神の国のような気がします。神様のお恵みを一身にいただいていると考えれば、自然に嬉しくにこにこするように思います。ある倫理を進める団体の指導者の方が「いつも上機嫌でいましょう」と呼びかけた講演を読んで感銘を受けたことがありました。

 もっともイエス様は人間の罪をすべて背負って生きていて厳しい顔をしていたかも知れないし、人の苦しみを自分のものとして苦しむとき、にこにこしてはいられなかったかも知れません。遠藤周作の「イエスの生涯」では、苦しむ人と一緒にいるイエス様の姿が描かれています。しかし、日曜日に教会に集まったとき、喜びではなく面白くなさそうな表情をしていたのでは、入れて欲しいと近づいて来る人がほとんどなくても仕方ないでしょう。

 カトリックの聖人の中で、いつもにこにこしていた方をどなたかご存知でしたら教えていただけませんでしょうか。
(この一文は、イクトウス2006年2月号に寄稿したものです)


2006. 5. 5 我が国と郷土を愛する
 教育基本法を変えようとしています。改正案の2.「教育の目標 (5) 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」。とあります。私は、当然のことであり、とてもいい言葉だと思います。

 この言葉に反対する人々は、「我が国と郷土を愛する」という言葉に反対しているものと思いますが、これは素晴らしい表現です。ただし、反対意見が分からないではありません。一度「我が国・・・を愛する」という言葉が入ると、いずれそれが「愛国心」に拡大解釈される恐れがあると心配するからではないでしょうか。

 憲法についても同じことが言えると思います。現行憲法はずいぶんゆがんだ解釈になってきていますが、これを一旦正常な表現にもどすと、また拡大解釈されるおそれがあるとして反対する人々が多いと思われます。とても悲しい日本の実状です。

 私は素直に、言葉通りに受け取って生きたいと思います。