ヘンジニア日記

2006. 3.28 空からアシジ訪問
 5月に私は初めてヨーロッパの巡礼旅行に行き、アシジに立ち寄ることを楽しみにしています。そこで、イタリアの地図をみて、アシジがどこにあるか探したりしています。

 たまたま google maps というサイトを見つけてこれで探しましたら、少し時間がかかりましたがアシジを見つけました。このサイトでは衛星写真も見ることが出来るのです。城壁に囲まれたアシジの町の、北西の端に、聖フランシスコ大聖堂が、上から見ると十字架状の聖堂がくっきり見えるではありませんか。聖クララ大聖堂も見えます。これからアシジ付近の地図を調べて、ポルツィウンクラの聖堂や、サン・ダミアノ聖堂も探そうと思っています。

 ローマのバチカンやコロセウムは見つけるのが容易でしたが、2000年前のフォロ・ロマーノの近くにある元老院跡も探して、どうやらこれらしいというのが見つかりました。

 昨日はエジプトのピラミッドを見つけました。三つ並んでいましたから、ギザのピラミッドではないかと思います。これから世界各地の航空旅行がずいぶん出来そうです。今日はグランドキャニオン、ナイアガラ、ニューヨークの自由の女神。

 なかなか時間が取れないのですが、ナスカの地上絵、万里の長城、アンコールワットなどが次の訪問予定地です。


2006. 3.25 テレポーテーション
 私が超能力に関心を持ったのは、高校生の頃でした。通俗空想科学小説で、相手の心を読みとるテレパシーの能力にすぐれた主人公、スパイだったかも知れません、「未来世界から来た男」というようなタイトルでした。それからしばらくは興奮状態から覚めなくて、私もテレパシーの能力をどうしたら会得することが出来るか、いろいろ考えたものです。超能力は、テレパシー、テレポーテーション、テレキネシスなどの能力に分かれます。

 まじめにエンジニアを目指して、さすがこの夢は覚め、最近のマスメディアが取り上げている超能力はみんなごまかしだと思っていますが、思わないところでテレポーテーションの研究が科学者の注目をあびているというニュースに驚きました。

 もっとも、私には理解を少し超える量子力学の分野ですが、アインシュタインが量子力学を否定するために持ち出したというパラドックスに対して、量子テレポーテーションを実現したというニュースです。

 実用的には実際に物質を瞬間移動させるというのではなく、量子コンピュータのコアテクノロジーとして期待されているようです。

 研究者は、東京大学大学院 工学系研究科助教授 古澤 明氏の研究でした。


2006. 3.21 素数の音楽
 私は子どものころから算数・数学が好きでしたねえ。優れた才能があったとは思えませんが、まあ好きという範囲です。小学生の頃から、兄や姉の算数の教科書を何かよく分からないまま何度も読み返してそのうち分かってきたり、父の書棚から「数の話」のようなテーマの本があれば楽しく読んでいました。

 フェルマーの定理があるということを知ったのは高校生の頃でしたか、フェボナッチ級数というのも憶えています。角の3等分は定規とコンパスでは出来ないということを聞いて、それでもトライしたものでした。

 最近「素数の音楽」という本を読みました。かなり分厚く、読み応えありました。素数がどのように出現してくるかということを解明しようとした数学者群像を描いたものという印象を受けましたが、ガウス、オイラー、リーマン、ヒルベルト、フーリエ、そしてあのチューリングなど数学界の偉人の名前は懐かしいものでした。  「リーマン予想」というのは知りませんでしたが、フェルマーの定理は解決したのに、「リーマン予想」はまだ解決した人がいません。

 とても面白いと思ったものに「メルセンヌ数」というのがあります。これは2のn(素数)乗から1を引いたら素数になるというものである。これは必ずしも全て素数というのではありませんが、その素数の大きさ比べが始まりました。このために巨大なコンピュータではなく、膨大な数のパソコンを並行処理機械,,としてネットを組むというものです。そして「素数の音楽」によるとこれまで一番大きいメルセンヌ数は、400万桁を超えているといいます。

 この素数の研究が現在の情報社会のセキュリティに一役買っているということです。素数は整数のかけ算として表せないものですが(1とそれ自身の数字を除いて)、とてつもない大きい数を因数分解することは非常に困難であることを使っているようです。10の100乗と言えば宇宙全体の原子の数より多いとあります。

 470ページを超える分厚い本を久しぶりに一気に読みました。

2006. 3.16 失われた時を求めて
 ヨーロッパへの巡礼旅行の話が持ち上がりまして、ルルドにも立ち寄る計画です。フランスといいますと私が心に残っているのは子どもの頃の「家なき子」と、大きくなってからの「失われた時を求めて」です。「家なき子」は随分気に入って何度も読み返したものですが、「失われた時を求めて」の大作は最初から出版された順に半分くらい読んだでしょうか、それから出版社か訳者の都合で順を飛ばして最後の「見いだされた時」が出されたのでそれを読んで終わってしまいました。今回ブルーストを検索して鈴木道彦氏の「ブルーストを読む―『失われた時を求めて』の世界」という本を見つけて、読んでみましたら、もう一度この人の訳の全巻を読み通して見たいと思いました。
 読み始めたときのきっかけは、多分20年ほど前に「巨人の星」中に「幸福は身体の健康によろしい。しかし精神を強くするのは心の悲しみである」という言葉を見つけてからでした。
 今私は「茶音頭」に熱中していますので、この秋の公演が終わりましたら、鈴木道彦氏訳の全13巻を私の生きている残りの時間を使っても読みたいという気がしましたね。


2006. 3.12 エンジニアの信仰
 聖書委員会のシスター福島から、先月に行われた森司教様の聖書講演会がとても良かったという話を聞きました。そして、講演が終わった後の質問で、ある青年が、「福音書は4つあるが、いろいろくい違って矛盾しているところがある。イエス・キリストは本当にいたのか」と尋ねたそうです。聖書は歴史の事実を書いたものではなくて、信仰の書であるから、信じるかどうかの問題である、と今私は考えていますが、その青年の話を聞いて、私自身が青年であった頃のことを思い出しました。私は、エンジニアを志して勉強していましたから、「科学的でないものは全く信じない」という考えで徹底していました。そのころ田舎から出てきたわたしにやさしくして後に親友となったカトリックの信者がいました。わたしは宗教は迷信だと思っていましたから彼と随分議論したものです。

 今日の福音書は、キリストが山の上で姿が変わったというご変容のところです。この話を当時話題にとりあげたかどうか憶えていませんが、恐らく「こんなばかげたことがこの世界で起こるはずはない」とでも言ったような気がします。神様が人間を作ったとはおかしいとか、自然科学に反する奇跡が起こることは決してないと、かなり激しく追求していました。

 会社に入って間もなくお恵みによって洗礼を受けてからは、このような記述について、歴史的、科学的に事実かどうかということは問題にならなくなりました。今日の福音書のキリストのご変容については、キリストと一緒に山に登った弟子たちは、キリストの衣服が真っ白になり、モーゼとエリアが現れたという体験をしたものだと思います。弟子たちがそういう体験をしたということで素直に納得します。福音書の初めの方では、イエスが洗礼を受けられたとき、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたと書いてあります。今日の福音のご変容では、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえたとあります。
 キリスト信者でない人たちがこの話を聞くと、そんなことはおかしいと思うかも知れません。

 キリスト信者は誰でも洗礼を受ける決心をするとき、キリスト体験とかキリストとの出会いがあるものだと言われます。私はこちこちの無神論でカトリックの友人と長い間議論してきたおかげなのか、あるとき突然、神が信じられるようになり、その一瞬キリストの教えがすべて信じられるようになったのが、神秘体験ではなかったかと思っています。そしてイエス・キリストの教えを知ることが出来て本当に良かったと思っています。自分を中心に置かない行き方を教えてもらって心が落ち着いたからです。

 実は私はここ2年間、町内会長を務めました。私の町内には200世帯、400名くらいが住んでいます。私はこれまで町内のことについて全く無関心でいましたが、この2年間の経験で毎日の生活の目立たないところで多くの人々が町内のため、いわば他人のためにいろいろ奉仕しているということを知ったのは驚きでした。人のために奉仕するのはキリストを信じる人だけではなく、ボランティアの人や、見えないかたちで多くの人が働いていることを実感しました。

 町内の運営でとてもいいことは、誰も長く続けないことです。選挙はありますが、かならず次の人に代わります。どんなにしんどい役割でもあんたしか出来る人はいないと言われると、なかなか断りきれないものですが、自分以外にだれも出来る人はいないと思うのは間違いだと思います。町内運営は会長が1人でやるのではなく、何でも役員で相談して進めます。だから誰にでも出来るのです。

 この教会の中の役割でも、そのように進むといいなと思います。1人でやるのではないのですから、だれがどんな役割を引き受けても、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声がかならず聞こえてくるものと思います。わたしはもう20年来、集会司式者と聖体奉仕者をやって来てあまりにも長すぎます。今年一年は続けるつもりですが、あまり長いのはいいことではないので、その次の年は引きたいと考えています。


2006. 3.10 冷静になる時間
 昨日勤めの休みを貰い、今日の定休日と合わせてここ2年間の町内会長の資料を次期の会長に引き継ぐための資料整理を行いました。資料というのは、そのつど(発生のつど)きちんと整理していれば、こんなに沢山たまって、その整理に苦労することはないことは最初から分かっていたのですが、ついその時々の忙しさに追われて、ためておきました。資料の整理はまず分類から始まります。きちんと次の会長に整理して渡すもの、会長に渡さなくても、庶務担当の引継に含まれていると思われるので、そちらに渡して廃棄するか残すか任せるもの、引き渡す必要はないがわたしの経験として1年ばかり残しておきたいもの、そして必要ないから廃棄するもの。

 部屋中に多くの資料を並べて分類を始めて、分類が終わったらもう一度あらためてそれぞれを見直して、順番を入れ替えたりすることなど、結局丸2日間使ったわけではないのですが、座布団に座ってやったのですっかり腰を痛めてしまったようです。

 資料の保管と廃棄はとても難しいですね、残して次の方の役に立つか、残さない方が次の方が楽になるかということです。廃棄を決断すると場合によって責任がかかっても来ますのでとかく何でも残しておいた方が安心の気はしますが、結局は役に立たない資料は場所を取るし、次の方の負担になるだけというようにも思えます。

 どんなことでもその場の感情で処理せずに、少し冷静になる時間が必要だということはあります。ちょっとジャンルは違いますが、会議の記録をまとめるのはすぐ後ではなく、1日くらいおいた方が本当に記録に残す大切なものが見えてくるとはこれまでよく経験したことです。資料の廃棄、保存も同じようなものかも知れません。そうしたら、今回の資料のまとめた整理も、良かったのでしょうか。


2006. 3. 6 偉くなりたいと思う人
 今朝の聖書の分かち合いは、マタイ25章31〜46でした。この個所は、人がみんな死んで最後の審判の時のことです。「生きている間に、飢えている人に食べ物を与え、のどが渇いている人に飲み物を与え、旅をしている人に宿を貸し、裸の人に着せ、病気や牢獄の人を見舞うことは、王様にしたことと同じであり、救われる」というイエスの話です。この逆に、貧しい、目立たない人に救いの手をさしのべなかったのは王様にしなかったことと同じで救われないという内容です。この個所について司祭は、どちらも行動はしたのであるが、救われたのは目の前にいる人に対して温かい気持ちで手を伸べたのに対して、救われなかったのは、自分が救われたいと思って、神様の言うとおりにするのだと思って手を伸べたということの違いだと説明されました。

 この話はよく分かりました。そしてマタイ20章26〜27に、「あなたたちのうちで偉くなりたい者は、かえってみんなのしもべとなり、あなたのうちで頭になりたい者は、みんなの奴隷となりなさい」とあります。ここは私が長い間疑問に思っていた個所ですが、これについて尋ねましたら、司祭はここはイエスが弟子たちの理解のなさに妥協してそう言ったのであるということでした。イエスの弟子なら、自分が偉くなりたいと思ったり、頭になりたいなんて思うことが問題外だということです。これで私はまた納得しました。


2006. 3. 5 宇宙の果てまでの計測
 ビッグバンは今から約130億年前と言われています。最大の望遠鏡が地球から120数億光年はなれたところの星を観測したというニュースを読みました。宇宙に素人のヘンジニアとしては一つの疑問にぶつかりました。宇宙の最大の速度は光速です。ビッグバンが起こって130億年の間に光速で一番遠くに行く星は130億光年までの遠さです。そして、そこから光が地球まで逆戻りするには、もう130億年かかります。これでは宇宙が始まってから130億年というのに矛盾します。じゃあ、その半分の65億年前に、中間時点で地球に向かって発した光が今地球に届いたとすると、分かります。しかしそれでは、後65億年かかって遠ざかっているというのは推測(外挿法)にしかすぎないのか。

 これを国立天文台にメールで質問したところ、まじめに回答していただきました。ところが残念ながら私にはよく分かりません。天文台の方はご親切に「なっとくする宇宙論」を読みなさいと教えてくれました。そこで、この本を買って読んで、なんとなく分かったような気がしましたので、もう一度天文台に確認のための質問をして見ようと思います。それで納得できたら、ここに報告します。
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2006. 3. 4
 今夜、教会の先輩の方のお通夜に、カトリック衣笠教会に行って来ました。病気ではあったけれど、突然の容態の変化で急逝されたということで、ご家族の悲しみはひとしおのことのようでした。私より15歳年長の方でした。バザーなどの機会によく一緒にビールを飲みました。

 カトリックの信仰では、死後天国に行くという言い方をします。実際の死後の世界がどんなものか、誰も知る人はいません。私自身は、死後の世界はどんなものか考えることは、この世界に生きていくための知恵のような気がします。だから、いろいろ人によって考え方が違ってもいいような気がします。

 イエスが言われた「神の国」というのは、死後のことではなく、今生きているこの世界の人と人との間のことのような気がしています。仏陀は死後のことについては何も言っておられないようです。イエス・キリストは十字架にかけられたとき、隣で十字架にかけられて回心した罪人に対して、「きょう、あなたはわたしとともに楽園にいる」と言われました。私はこの言葉は、死に行く人に対しての救いの言葉ではないかと思っています。