作成日時 : 2007/09/02 20:23
信仰のために生命をかけたキリシタンの代表的な188人が、カトリックの福者として正式に決定し、列福式が行われるのを待っています。日頃あまり関心がなかった殉教について、話を聞いたり、話し合ったりする機会が増えました。殉教者の死に方より、どう生きるか考えるのは当然のことです。ところが、生活の中の苦しみを耐えることが現代の殉教であるとする考え方がよく見られます。 わたしは、殉教というのはもっと違うのではないかと考えていましたが、キリシタン研究者の話を2度聞く機会があり、目を開かれました。迫害されていた当時、殉教の心得を書いた書物を教えて貰ったのです。それは大正14年に出版された姉崎正治著「切支丹宗門の迫害と潜伏」です。このなかに殉教の栞があり、殉教の心得がありました。 当時の言葉ですからなかなか分かりにくいところがありますが、これからわたしはその内容を分かりやすい言葉にしてここに紹介しようと考えています。もちろん専門家ではありませんから、正確さに欠けるかも分かりませんが、その大意を表せたらと考えています。 まず、 その序文 キリシタンの上に迫害があるときの、信仰についての心がけ 「キリシタンが禁制になったとき、その心がけを教える司祭、修道士がいないところでは、罪にならないことでも罪になるかと思い、罪になることを罪にはならいと迷うことが多い。そこでこれをはっきりするためにこれを書き上げた。これを4つに書き分けた。 第1には、全てのキリシタンは信仰を固く守ることであり、第2には、信仰に背く罪とは何か、またどんな行いにより信仰を失うかということ、第3は、信仰に背かない行いについて、第4に、殉教に直面したときどう覚悟をしたらいいかである」。 |